むかしの記憶


 

小学校や中学校の時のこと
美術の時間では 課題を
ササッと描いてしまうので
時間が余ったり1枚のところ
2枚描いたりする子供だった。

絵を描くのが苦手な友達に
助け舟を要請され
1度だけ その子の分を
描いてしまったことを覚えている。

バレないように
自分カラーを出さないようにと
子供ながら意識したものの
きっと先生は
気づいていたにちがいない。

時々意味もなく
そのことを思い出す。

なぜ思い出すのか 今日
エリックカールの本を見ていて
解明した。

“色は自分で見つけ出すもの”だと
再確認してしまったから。

塗っていくうちに出てくる
自分の色を見つけ出す楽しさを
その友達から奪った罪悪感のようなものが
あったのだと気づいた。

友達の中では やったラッキー!
という感情で終わっただろうと思う。
けれど 描いたこちらは何十年たった今でも
時々思い出すくらい覚えていた。

些細なことだけれど
色を描く・出す・戯れる・感じる
といった色の楽しさを
知っている自分だからこそ
きっと 10年20年それ以上過ぎようと
忘れることができなかったのだと
気づいた。

でもまてよ。
今だから思えることがある。

その友達には
たった1度しか描いてあげていない。
ということは
それ以外は 美術の時間で
自分で描いていたはず。

そして 勝手な解釈まですれば
わたしが描いた絵をヒントに
白紙の上に色を載せていく作業を
こんなふうにすればいいのかな?
などと描いていったかもしれない。

そんな何年も前のことを
もう気にする必要はない。
今日 そんなふうに思えてきて
何だかスッキリした。

絵というのは
上手とか下手という基準はなく
写実的だからといって
それが魅力的とも限らない。

不器用さが逆に魅力になることがある。

はみ出した感じや曖昧な感覚
ズレていたり 突拍子もない
反対色を持ってきていたり。
自由でいい。

自由がいいんだ。

そうして今夜も
改めて純粋に油絵を
重ねて描いていこうと思うのでした。

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